知人宅で聞いた戦争体験

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知人宅で聞いた戦争体験

お盆も過ぎ、夕方は少し過ごしやすくなった。今日は、私の地元(練馬)の父の友達の家に呼ばれたので、父と一緒にお邪魔した。

庭のメダカの話をしているうちに、奥様が手料理を出してくださった。小茄子の浅漬け、冷奴、エビチリ、こんにゃくの煮物、魚屋の出前の御造り(鮪、鯛、赤貝)が、それぞれ小鉢になっていた。どれも小手が効いてて、美味い。料理を運び終わったら、ご主人の横に座られてお酌をしてくれながら、このこんにゃくは近所の方が下仁田の実家から持ってきてくれたものであること、それが重かったこと、小茄子は昨晩漬けたがこの大きさだと丁度いいでしょうなどと、料理の説明をして下さった。こういう奥様だと旦那も人を呼びたくなるだろうし、それを繰り返すうちにどんどん洗練されてきたのだろうと思う。自分で世間を狭くせず、付き合いは広くしたほうが年をとっても愉快に過ごせるお手本を見た気がした。

四方山話をしているうちに、戦後70年の話題になり、それぞれが戦争当時のことを話してくれた。以前、私の父が東京大空襲のときに、川越街道で爆風に煽られて空を飛んだ話をブログに書いたが、今日奥様から聞いた話も共有すべき日本の記憶だと思うので、紹介したい。

>曰く、、、、 私は、今は、戦争の頃の話はしたほうが良いと思っています。

私が、小学校4年(昭和18年)に上がってから、学校の作文の授業時間に書くことは、戦地の兵隊さんに「兵隊さん ありがとうございます。」という手紙ばかりでした。
食事はいつも芋。夜、家の明かりもつけることができなくて、夜は真っ暗でした。月の明かりをたよりにしていました。

小学校6年生の終わり(昭和20年)の3月10日の東京大空襲(注1)の日、焼夷弾(注2)は雨のように降ってきました。
花火大会の花火より余程多くて、それこそ雨のようでした。
当時は、それぞれの家は防空壕を作っていました。押入れの下などに、二帖ほどの防空壕を掘って。
大きな空襲だったので、町内で作った大きな防空壕まで布団を被って兄弟で走りました。そばを学校の友達も一緒に走っていましたけど、栄養失調で走れなくて倒れて、防空壕まで行けなかった子もいました。
防空壕には入れましたが、防空壕の入り口にも焼夷弾が降り注いで来て、凄い炎で、私はもうここを出ることはできないだろうと思いました。

幸い火災は収まり、家に帰りました。
家は半分燃えてしまっていました。家の屋根や庭にある焼夷弾の鉄の筒を兄弟で集めたら70本もあって、それをリアカーに積んで捨てに行きました。
そのころは戦闘機も降りてきて、機銃掃射されました。自分の目から、機銃掃射する戦闘機のアメリカ兵の顏がはっきり見えました。
そばにあった木の陰に隠れましたが、機銃掃射の弾が自分の体の近くの地面にバッバッバッバッ、、っと当たっていくので怖くて、もう動くこともできませんでした。
その後は、家にいることもできなくなって、終戦まで防空壕で過ごしました。
疎開した友達はいましたが、その人がどうなったかも、疎開した人がどんな暮らしをしているかは教えてくれませんでした。

空襲警報は、本当に怖かったです。玉音放送は、防空壕のそばで聞きました。玉音放送を聞くその時まで、日本は戦争に勝つと思っていました。まさか負けるとは思っていませんでした。負けるという話は全く聞きませんでしたから。
戦争が終わって、建て直した家のそばに工場ができました。
その工場では、お昼になると、お昼休みを知らせるサイレンが鳴りました。
でも、そのサイレンの音が空襲警報と似ていたから、戦争が終わって、何年か経っても、そのサイレンを聞くともう怖くて動けなくなりました。戦争は終わったと頭では分かっているのにそうなったしまうのです。

戦争が終わって、私の住んでいる町にも進駐軍が来ました。
学校から、帰るとき、駅に進駐軍のアメリカ兵がいて、とっても怖かったですよ。
アメリカ兵に追いかけられたり、とてもひどいことをするアメリカ兵がいましたから。

注1:東京大空襲 東京は1944年(昭和19年)11月14日以降に106回もの空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

注2:昭和20年3月10日の東京大空襲で米軍B29爆撃機が主に投下したのは「M69油脂焼夷弾」だった。
六角柱の焼夷弾(直径7・6センチ、長さ50・8センチ)には、ナフサ(粗製ガソリン)と薬品を混ぜたナパーム剤が注入されており、着地と同時に引火する。すると1300度で燃え上がり、30メートル四方に火炎を飛散させる。この焼夷弾計38発が集束型爆弾内に収められ、投下後数秒で散解する仕組みだった。
サンケイ新聞 http://www.sankei.com/premium/print/150306/prm1503060012-c.html

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TAGS:戦争 , 戦争体験 , 東京大空襲 , 防空壕

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古田利雄

主にベンチャー企業支援を中心に活動しています。上場ベンチャー企業、トランザクション、NGC、Canbas等の役員もしています。

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