宇治の興聖寺に行って思ったこと

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ここ3年程、お正月明けはコロナで多少歩きやすい京都で3,4日過ごしている。
寒いので朝はゆっくり起きて、10時過ぎころ宿を出て寺を回る。
清水寺から祇園や、嵐山など毎年散歩するコースもある。

わたしは関東からのお上りさんなので宇治方面に行けば平等院を見て辻利か福寿園でお茶をいただく。
宇治に向かう電車の中で京都の曹洞宗のお寺をググっていたら、宇治川を挟んで反対側に開祖である道元禅師が1233年に開創した興聖寺(当時は深草、1645年に宇治に再興)を見つけた。
平等院を出て右に行くと宇治川に出る。宇治川の中にある細長い橘島に架かっている京都らしい風情の二つの橋を通って対岸に渡る。宇治川に沿って川上に少し歩くと山門に向かう琴坂が見えてくる。秋の紅葉の美しさは有名だそうだ。https://youtu.be/-KyT3aVT_d8

左右の側溝に水が流れる琴坂を上り山門を入り、スリッパに履き替えて右手の庫裡(くり・厨房)で入館と御朱印の受付をする。
法堂に向けて順路を歩くと道元の生涯や教えの説明がある。img_20230113111914.jpeg
道元は、読経や座禅だけでなく掃除や食事など全てが修行であると説いた。

曹洞宗の総本山永平寺の元貫主宮崎奕保(2008年に106歳で没)は、  心身は一如 
スリッパを脱ぐのも座禅の姿 スリッパは揃えるのが当たり前 スリッパが曲がっていたら自分が曲がっている
全て心が現れているのだから   と104歳のときに説いている。 https://youtu.be/9F4Q1e1E9NA 
机の上が散らかっていたら私の心が散らかっているということか、、、と耳が痛い。

興聖寺の庭は美しい。それは僧侶や檀家などが丁寧に掃除(お勤め)をしているからだ。
法堂の奥の庭では、二人の男性が庭木の色の悪い葉を細い棒を使って丁寧に取り除いていた。
お寺では掃除を仏様や礼拝者に失礼がないように という気持ちで行うという。

全てが修行である という考え方をすると、全てのことが大変になりそうだが、そうではない。
何かを行うことが難しかったり苦しかったりしても、「これも修行」と思えば、難しいのも苦しいのも当たり前だと受け止めることができる。
すべての瞬間を大切に過ごす、全てのことを丁寧にすると心がけるようになる。
そうすると仕事や人間関係も良くなってむしろ人生が楽になるはずである。
人は生来美しいものや正しいことが好きだから精神衛生にもよいと思う。

仏教では、「一切皆苦」という。
「苦」の代表は、生、老、病、死だから、一切皆苦とは、全てのもの・ことは苦しみである 
という意味かと思っていた。
しかし、正しくは 一切皆苦であるとの知恵をもってものごとをみれば、人は苦しみから逃れることができる
ということらしい。
老いていく身でありながら老いないことを願うのが苦しい という重たいことだけでなく一日に起こる全てのことに当てはまるものだと考える(全ては修行だから)。
そうすると一切皆苦は、「ものごとはなかなか自分の思い通りにはいかないものだ。」という理解になる。
思い通りにならないことも受け入れることができるようになる。
こう考えるとかなり気が楽になってくる(苦しみから逃れたかな?)。

朝起きて、ストレッチをするのも修行、朝食を作るのも修行、それをしっかり噛んで感謝しながら食べるのも修行、勉強するのも修行、頼まれた仕事をするのも修行、人の相手をするのも修行、散歩するのも修行、ランチするのも修行、、、ブログ書くのも修行、上手くいかないこともあるけど気にしない と考えて取り組んでいたらとてもよい一日になりそうな気がする。
合掌 m(__)m

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TAGS:一切皆苦、すべては修行 , 宇治 , 興聖寺 , 道元

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古田利雄>
古田利雄

主にベンチャー企業支援を中心に活動しています。上場ベンチャー企業、トランザクション、NGC、Canbas等の役員もしています。

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